昭和44年01月29日 朝の御理解
御理解 御神訓
「神」を頂く。
この教典の神訓と言う、神と言う神と言う字は、示す申すと書いてありますね。示す申すと書いて神と神訓の神と読ませて頂きます。いわゆる神様が教え諭して下さる。いうなら示して下さる。申して下さる。言うて下さる。言うて聞かせて下さる。どういうことを示して下さるかいうて下さるかとね、お諭し下さるかと、ここのところをね根本にしての信心にね、天地の中には一分一厘の間違いの無い神様の御働き、仕組みの中に私共がある。天地にはそういう仕組みがある。
まぁ言うなら天網恢恢疎にして漏らさずと言う様な、天網が張り巡らされてある。一分一厘の間違いの無いそこに軌道がある訳ですよ。いうならそういう網が張り巡らしてある。そういう中にあって人間の真実の幸せ、仏教で言うならば極楽に行けれる道です。教祖は信心をして居れば一年一年有り難うなって来るとこう仰せられる。その有り難うなって行く道を教えて下さる。神様はそれを教え示して下さる。
教祖生神金光大神の信心、いわば実意丁寧神信心の教祖様に、天地の親神様は何をどういう風に教えられたか、そしてそれをどう言う風に取次げと言うて下さってあるか。そこに立教神伝、又は天地書附がその神技というかねを分からせてもらいます。教祖様も御自身無学の百姓と言うておられます様に、いわゆる難しい事は分からん。分かられんのが当たり前。言うならば天地のただ今申します様な、一つの法則とでも申しますかね、それを真理の追及本当の事。
本当に極楽にいけれる道本当に有り難くなっていけれる道というものを、理論的に難かしゅう教えては居られない。ただ実意丁寧の神信心。どういうことを天地の親神様は、教祖に願われ、どういう事をもって氏子の立ち行き、神の立ち行きを願っておられるか。取り次ぎ助けてやってくれという、その頼みの眼目なるものが、天地書附ね「生神金光大神天地金の神一心に願え、おかげは和賀心にあり、今月今日で頼めい。」ですからもう理屈じゃあない。
この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと言う道である。おかげは和賀心にある道である。ですからね私共がここに願わなければならない事はです、本気で有り難くなりたい本気で和賀心を頂きたい。森進一のあの「花と蝶」の歌詞ではないが、「花が散る時蝶が死ぬ、そんな男と女になりたい」私共がです。どんな場合でもどんな時でもですね、どんな場合でもどんな時でも、この有り難いと言えれる男と女になりたいね、どんな場合でもどんな時でもね、有り難いと言えれる親と子になりたい。
そのなりたいという事が願いでなからねばならんのです。金光様の信心はね、今日も商売が繁盛します様に、病気が治ります様にというような願いと言うのが大変な見当違いだということが分かります。それこそ切々と歌う森進一の歌じゃないですけれども、真実どの様な場合でもどの様な事柄の中からでも、それを有り難いと受けられる私になりたい。男と女になりたい。どんな場合いでも有り難く受けれる夫婦になりたい。どんな場合でも有り難いなぁと思えれる親と子になりたい。家族中でありたい。
いわゆる有り難たくなりたいということ。有り難くなりたいということが、私共の願いでないとです。例えば神誡、神訓、御理解がです。大変無意味ではないでしょうけれども、無意味のような事になってまいります。神訓、神様が示して下さる言うて下さる諭して下さる。それはどこかというと私共がそうなりたいということ。和賀心になりたい有り難くなりたい、信心しておれば一年一年有り難くなっていけれるといわれるのに、一年一年有り難くなっていっていないとするならです。結局私共が有り難くなりたいという願いを外して、願っておる信心しておるということになるのです。
もうこれが金光様の御信心の根本です。だからいうならね、ただ今申します様にこういう天地の中には法則があって、こういう真実のこといわゆる真理があるということをです。理屈とかね学問的には究明してもなからなけれれば、教えてもないけれども、そういう例えば難しいそういう天地の中に張り巡らされておる、それこそ天網恢恢疎にして漏らさずという程しの、天地の仕組みの中にあってです。人間が真実幸せになっていけれる、真実極楽に行けれる道。
いうならばですねその真実有り難くならせて頂きたいと言うその願いはね、どこへ通じるかと言うと。いわゆる私は仏教でいう滅法界という事は、どういう事か知りませんけれども、私はその字から判断していわゆる滅法界なのです。滅法という事は昔から飛び切り上等と言う時に使いますね普通では。滅法上等だという事ね滅法界とその有り難いという私は心の状態はですね、どういう風に天地の中に張り巡らされてある、それこそ天網恢々疎にして漏らさんと言う程しの、天地の一つの掟の中にあってもです。
この例えば鑑札とでも申しましょうかね、有り難いという、有り難いという言わば通用切符とでももうしましようかね。その例えば切符さえ持っておればです、その天地の中にその様に張り巡らされてある程しの、難しい事の中にあってもこれさえ持っとれば、いわゆる何処へでもじゃない、有り難い所へ通行出来れるようになっておる事をです、只々その事だけを、教祖様に天地の親神様は教えておられるというてもいいのです。
天地書附ね「生神金光大神天地金乃神一心に願へ、おかげは和賀心にあり」この和賀心にありと言う、その和賀心ひとつを持っておればです。何処へでも通用出来る通行出来るね。しかもそこにはですね、様々な例えば法則と言うものが天地の中にはありましょう。こうすればあげんなる、あぁすりゃこげんなると言う、一つの法則があるけれども、そういう法を滅っしてしまってあるね。自由気ままというとちょっと言葉が過ぎるかも知れませんけれどもね。
いわゆる自由自在自分の心の喜びと同時に、その喜びの生活が出来れる世界がある。昨夜私は高芝さんのところのここの総代であります、謝恩祭にまいりました。今度移転しましたお家の大変それこそ屋敷の中に川が流れておる、いうなら屋敷の中に山があり川がありといった様なそのうお家です。あの狭い所からあの広々とした立派な所でお祭りが奉仕されてある。神様も本当にお喜びであろうと、まぁ思わせて頂く程のようなお祭りでした。例えばほんなら昨日お祭りを拝まれた。
皆さんの場合あのお祭りはどう頂かれたか、感じられたかは知りませんけれども、もうそれっこそ一分一厘の間違いのない神様の働きの中に、あのお祭りが奉仕されました。もう一分の隙もない程のお祭りでした。まぁ私はいつの場合でもお祭りを奉仕するからには、そうでなからねばならんとこう思うのです。もうそこに一分狂っておるならば、その一分が大変な間違いになるのですから。天候のことお祭りの時間のことね、あちらにおられなければその実感はわからん。
私が言うほんな事一分一厘間違いのないお祭りであったなということが分からん。と言う程しのいわばお祭りであった。だからこれからも一分一厘の間違いのない働きが高芝の家に頂けれる筈のがです、一分違い二分違いして来て、おかげが乱れて来るとするならです。昨日吉井の熊谷さんそれから、まぁ一人誰かだったで佐田さんだったでしょうか、もう本当に一分の考え違いが、大変なおかげを落とした元になるかと思うとです、一分その一分の所こんな所かと思う所を大事にしたおかげで。
この様なおかげが受けられるといった様なお届けをされましたが、その通りなんです。昨日、一昨日が久留米の共励会でございましたね。それで熊谷さんも、今日は久留米は御無礼しょうと思いよった。ところが朝の御理解を頂かれておられる内に、私はどういうふうに話しよったか知らない、思いませんけれども、久富正義さんのお話が出ておったと、あれの話を頂かせて頂きよって、あぁここで間違うておっちゃならんと思うて、私は久留米に行く事を決心しましたと。
娘さんが筑豊銀行へ勤めて居ります。もう長い間勤めて居ます。毎日それがあぬ支店から本店の方へ持って行かなければならない書類を、支店の方から持って来ておる。現在本店の方へ勤めておる、その書類がその行こうと思ったところへ、そのうある時その娘が間違いなしに持って行くはずの書類がそこにある。ははぁこりゃ明日持って行くとじゃろうとこう思っておる。
そしてそのうあのう戸締まりを済まして、久留米の方へ行こうと思って出かけとったところが、あのう支店の方から銀行員の方がやって見えてから、「今本店の方から電話が掛かって参りまして、何時も熊谷さんが持って来て頂くその書類を忘れておられる、これがあのう無いと他の方の仕事に大変支障を来すから、それを支店の方へすぐ持って来る様にと言うて電話が掛かりましたから。
もう自分が出る所でそこに一分一厘まで間違いのない働きの中に、「そんなら私が今から久留米に行きよりますけん、お宅から銀行の方がお出でられんでも私が持って行きましょう」という、そうしたなら助かりますと言うので、その銀行の書類を持って行かれた。なら娘さんも大変喜ばれた。それから後おかげが沢山、まぁいろいろ伴なっておりますけれどもですね。この時に私がですね、あの御理解を頂かずして、もうよかよかと放からかしっとたらね。この様に例えば娘に喜んでもらう事も出来なければ。
又はそのう私がちょっと狂うておったらです。さぁ家は閉まっておる。書類は銀行からは取りに来なさった、それが一分の間違いであっても外の銀行へ行く、伝わって行く事に大変なここに間違いが起きて来る、と言う様な意味の御理解をなさって居りましたがね。私共がほんのちょっと実意を欠いだ、欠ぐということね。だから何時も信心する者はね、信心になれよというここの所を取り外さん様にしとかねばならない事が解ります。例えばほんなら昨日の高芝さんところのお宅祭りでもそうです。
ほんならばこうして一分一厘の間違いのない働きの中に、その様なならお祭りが奉仕されておる。ならこう言うお働きのあっておる合楽のお広前であるのですから、一分一厘間違いのないお働きが、銘々お取次ぎを願っておる皆さんの上にも、現れて来なければならないのに現れて来ないとするならです。それはそのおかげの受けられない方の側が、ひとつ考えなければならないの所じゃなかろうかと私は思う。ですからそりゃ信心ちゃそげんもう微妙な難しい事とこういうけれどもです。
そう言う難しい事じゃ決してない。ただ私達があぁありたいと言うのがね、いわゆる有り難くなりたいと、信心の眼目がねお互いが本気で有り難くなりたい、有り難くなりたい有り難くなりたいと、そういう願う心からです。ならどう言う風にすれば有り難くなれるかと言うところに、実意丁寧にならなければおられんのである。有り難くなりたい、本気で有り難くなりたいと思うておるのに、例えば実意を欠いだ事をしたら、折角有り難くなりかかっておるとが崩れてしまうなら惜しい。
だから有り難くなりたいと言う願いさえ持っとけばどういうことか分かります。有り難くなりたい有り難くなりたいと言う願い。それが主人が有り難いなら家内も有り難い、あぁ有り難い。六地蔵さんじゃあないですけれども、さぁいよいよ明日は正月だと言うのにつく餅米がない、さぁおじいさんとおばあさんが話合って、お正月が来ると言うのに餅もつかれんではなんですから、と言うので何がなしかの品物を持って、これでもお金に変えてお餅でもつこうと、おじいさんとおばあさんが話合った。
おじいさんがそれを持って町に売りに行った。もう大変な寒い雪の日であった。町でなにがしかのお金に替えて、帰りがけにお寺の前を通りかかると、六地蔵さんがもうそれこそ冬に雪の綿帽子を被った様にして立っておられる。寒かろう冷たかろうと思うたら、もう矢も楯もたまらん。おじいさんは近所の荒物屋に行ってからたこん陣八笠を買った。陣八笠を買った。全部の金を払ったけれども五つしか買えなかった。仕方がないから五つを五人の地蔵さん方に被せて。
そしてあとの一つは自分の持っておるタオルか何かを持ち出して、ほうかぶりをさせて「あなたはこれで我慢して下さい」と。そして帰らせて頂いた。「ただ今帰りました只今帰ったぞ」と。「お帰んなさい寒かったでしょう、どうでした今日のあの首尾の方はどうでしたか」と「それが実はこうこうだった」と話した。折角明日は少しばかりの餅米でも買って餅がつかれると思うて待っていたのに、 おじいさんあなたばっかりは、どうして馬鹿な人ですかと、例えば言うておったら次の話にゃなって来なかった。
それは「おじいさんそれは良い事をしなさったね。もうついた餅よりも心持ちで、今度の正月はもう心持ちで頂きましょう。」とさぁさぁもう今晩は寒いから早う休みましょうと言うて休む。その向こう方で何んか知らんけど騒がしい音がする。起きて見ると。その向こうの障子を開けて見ると、向こうの方で確かに昼方その笠を被せたり、タオルを被ってもろうたお地蔵さん方がうろうろして居られる。ある人達はどんどんもうお餅をついておる。あるお地蔵さんはさっさとその大工さんをやって居る。
材木を運んでおる人もある。その六地蔵さん達がもう一生懸命奇麗な家を建てたり、餅をついたりをして居られたとこう言う。さぁ一夜明けて元日にはそれこそ、もう見事なお家で立派なお餅だけじゃない、お家で目出度いお正月を迎えたと、まぁ六地蔵さんのお話はねぇ、これは私はもう心理にうがった話だといつも私はそれを思う。おじいさんが喜んでおるのにおばあさんが喜ばないと言う法はないじゃない。まぁあなたばかりは。またお前ばかりはと例えば言い合う様な事では、私はおかげは受けられないね。
それは良い事をなさったと一緒に喜べれるおばあさんがあって、私はその様なおかげが頂ける。私はひとつもこれをですね、ほんとにあのうおとぎ話とかただ子供だましのお話とは思われません。何故ってそれは私自身がそのおかげを頂いてきておるからです。私はあの椛目時代に。ある明日はいよいよ元旦祭と言う時でした。私がちょっとあの油断しておるちゅう訳ではない、あの御結界とこうして障子がこうある。その廊下のにですね。あの時分にやはり五六俵だったと思いますけれどもお米がこずんである。
誰が持って来たかは分からんとじゃに、もうそういうような年々であり又はそういう日々である。誰が何処から持って来たか分からん様にして、私共がおかげを受けて来て居るということ。それには例えばなるほど,人が喜べないところに本気で喜ばせて頂いた。しかも私だけじゃなくって、家族中の者がその事に協力してくれた。それが現在合楽の御比礼の元になっておるのです。ですから本当に家族が本当に勢を揃えてね、どの様な場合にでも有り難いと思える男と女になりたい、親と子になりたいと言う願い。
そこからですね人間の本当の幸せ、言うならばそういう難しい掟のあるこの天地の中にあってですら、この喜びの通用切符さえ持っておれば、滅法界に住めれる。私は道が開けて来る。それこそ滅法素晴らしいおかげの世界である。もうそこはもうと言うものがない世界である。但しそこにはですね、いやそこはいわば極楽ですけれどもね、極楽が極楽を生んで行くと言うか、喜びが喜びを生んで行くというような、極楽でなからなければいけない事は勿論です。
例えばお風呂にでも入る、温泉にども行ってから、あぁ極楽極楽といっておるようなねあの極楽ではいけんのです。これは例えていうなら茹で卵のようなもんじゃと今朝教えて下さいました。そりゃもう温泉に行ったお風呂入ってあぁ結構結構と言うておる極楽じゃろうけれども。これではね茹で卵の様なものですから、もうそれから先は生まれないのです。けれどもです。例えばあぁこの寒いのに、こげん早ようからね寒修行をしておる。その中に喜びが湧く。
普通から見たらまぁなんと難儀な事であろうかと思う中にです、神愛を悟らせて頂いて神様はこうまでして、私を鍛えて下さるんだと言う喜びを涙に?き暮れる様な道がある。そういう喜びこう言う喜びならほんなら生卵の様なもんだ、これが貯まって親鳥が温めたら必ず五羽が十羽十羽が二十羽に、増えていく生みなされて行く様な極楽じゃなからなければいけません。ややもすると枯れ果てた様なね、金にものを言わせたり権力にものをいわせたりして、結構けだらけの生活をしておると言う極楽ではあろうけれども。
これは生み出すものはない。私共が絶えづ例えばそういう滅法界に住まわせて頂く様なおかげを頂いてでもです。絶えずそれが生み成されていく、喜びが生み出されて行くね、そういう私共はおかげを心の中にいつも思うておらなければいけません。本当にそういう喜びの本気でですね。私共の願うところのいわばその焦点がです。そういうどの様な場合いでも有り難いと思える男と女になりたい、親と子になりたい、このこのなりたいと言う事の焦点が喜び。いわゆる和賀心。教祖の神様はあの立教神伝によってです。
そういうおかげの受けられる氏子を、取次ぎ助けてやってくれと、こう天地の親神様から願われておられる。いわゆる神も立ち行き氏子も立ち行く。神の喜びでもありゃ氏子の喜びでもあると言う。おかげを取次いでくれと、その御依頼がです、このいわゆる神誡、神訓、御理解に現わされておる。これは難しいことではない。真例えば真理の追求でもなければ、法則の勉強でもないけれども、この全てがです、本気でお互いが有り難くなられることの為の御教えなのである。
今日私は頂いたらこりゃここに「神訓」というという、これだけを頂くんですね。神様が示して下さる神様が言うて下さる。それは有り難くなりたい有り難くなりたいと言う願いを持て、又そうある有り難いお参りになってくれと言う、これは全てなのです。そこに教祖様のそれこそ理屈も何んにもないけれども、「この方の道は喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせん」「今月今日で一心に頼めおかげは和賀心にあり」と、いわゆる何ぁんにもない。和らぎ賀ぶ心にのみあるのだと。
その通用切符を持って私共が極楽を目指さなければならん。しかもそれは生きた極楽じゃなからなければならない。より極楽へ進んで行けれる私はものでなからなければならない。茹で卵の様なものじゃ詰らん極楽じゃ詰らん。親鳥がそれを温ておる温たらそれがかい割れて、そしてそれが又卵を生んでいくと言った様な、極楽を目指していく為にです。本気で一つ有り難うなろうと言う、有り難くなりたいと言う願いが元に、お互いが信心の稽古をしなければならないという事をですね、改めて一つ頂きたいとこう思います。
どうぞ。